神のことばとイエスの証とのためにー単立バプテストの東京聖書教会

第二ロンドン信仰告白

目次

第一章 聖書について
第二章 神および聖なる三位一体について
第三章 神の聖定について
第四章 創造について
第五章 神の摂理について
第六章 人間の堕落、罪及びその刑罰について
第七章 神の契約について
第八章 仲保者キリストについて
第九章 自由意志について
第十章 有効な召命について
第十一章 義認について
第十二章 子とされることについて
第十三章 聖化について
第十四章 救いの信仰について
第十五章 生命と救いに至る悔い改めについて
第十六章 善いわざについて
第十七章 聖徒の堅持について
第十八章 恩恵と救いの確信について
第十九章 神の律法について
第二十章 福音及びその恩恵の範囲について
第二十一章 キリスト者の自由と良心の自由について
第二十二章 宗教的礼拝および安息日について
第二十三章 合法的宣誓と誓約について
第二十四章 国の為政者について
第二十五章 結婚について
第二十六章 教会について
第二十七章 聖徒の交わりについて
第二十八章 バプテスマと主の晩餐について
第二十九章 バプテスマについて
第三十章 主の晩餐について
第三十一章 人間の死後の状態及び死人の復活について
第三十二章 最後の審判について

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第一章 聖書について

1. 聖書は救いの知識、信仰、および服従のすべてについての唯一の、十全で、確実また誤りない規範である(Ⅱテモテ3:15-17; イザヤ8:20; ルカ16:29,31; エペソ2:20)。自然の光また創造と摂理の御業は、人が弁解できないほどに神の善と知恵と能力とを明示している(ローマ1:19-21; 2:14-15; 詩篇19:1-3)。しかしそれらは救いに必要な、神およびその御旨についての知識を与えるに十分でない。したがって主は、いろいろな時期に種々の方法で、ご自分の教会にご自身を啓示し(ヘブル1:1)、御旨を宣言し、後には真理をよりよく保存し、宣布するために、また教会を肉の腐敗やサタンおよび世の悪意に対して一層確実に確立し、かつ慰めるために、それらをことごとく文書に託するのをよしとされた(箴言22:19-21;ローマ15:4;Ⅱペテロ1:19-20)。これが聖書を最も必要なものとし、御旨をご自分の民にあらわした神の従前の啓示方法は今は終わっている。

2. 聖書には、または記録された神の言葉という名のもとに、今や旧新約の全部の書が含まれており、それらは次の通りである。

旧約聖書
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記第1、サムエル記第2、列王記第1、列王記第2、歴代誌第1、歴代誌第2、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書

新約聖書
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書、使徒の働き、ローマ人への手紙、コリント人への手紙第1、コリント人への手紙第2、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への手紙第1、テサロニケ人への手紙第2、テモテへの手紙第1、テモテへの手紙第2、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙第1、ペテロの手紙第2、ヨハネの手紙第1、ヨハネの手紙第2、ヨハネの手紙第3、ユダの手紙、ヨハネ黙示録、

これらすべては、信仰と生活の規範となるために、神の霊感によって与えられたものである(Ⅱテモテ3:16)。

3. 通常、外典とよばれている書物は神の霊感によるものではなく(ルカ 24:27,44;ローマ3:2)、聖書の正典(または規範)の一部ではない。したがって神の教会においては何の権威もなく、また他の人間による著作と違ったもののように承認したり、使用してはならない。

4.聖書を信ずべきものとしているその権威はいかなる人や教会の証言にも依存せず、全くその著者である(真理そのものであられる)神に依存している(Ⅱペテロ1:19-21; Ⅱテモテ3:16;Ⅰテサロニケ2:13;Ⅰヨハネ5:9)。したがって、それが神の言葉であるゆえに聖書は受け入れられるべきである。

5.われわれは神の教会の証言によって、聖書を高くまた貴く尊重するように動かされ、導かれるようになる。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の荘厳性、すべての部分の一致、(神にすべての栄光を帰す)全体の意図、人の救いの唯一の方法に関する十分な開示、その他多くの比類のない優秀性、また全体の完全性などは、聖書がそれ自体神の言葉である事ことを豊かに証明する論証である。それにもかかわらず、その誤りなき真理と神的権威についてのわれわれの完全な納得と確信は、御言葉により、また御言葉とともに、われわれの心の中に証言したもう聖霊の内的御業からでる(ヨハネ 16:13,14; Ⅰコリント 2:10,11,12; Ⅰヨハネ2:2,20,27)。

6.神御自身の栄光、人の救い、信仰および生活に必要なすべてのことがらに関する神の全計画は(Ⅱテモテ3:15,16,17; ガラテヤ1:8,9)、聖書に明確に規定されているか、または必然的に含まれている。これに対しては、聖霊の新しい啓示であれ人の伝承であれ、いかなる場合にも附加されてはならない。しかし、われわれはみ言葉の啓示されている事柄の救いの理解について、聖霊の内的啓明が必要であることを認め(ヨハネ6:45; Ⅰコリント2:9-12)、また神礼拝と教会政治に関しては、人間の行動や社会に共通していて、本性の光や常に守らなければならないみことばの一般的原則に基づくキリスト者としての配慮によって規定されなければならない状況があることを認める(Ⅰコリント 11:13,14; 14:26,40)。

7.聖書の中のすべての事柄はそのままでは一様に平易ではなく、またすべての人に同じ様に明白ではないが(Ⅱペテロ3:16)、救いのために知り、信じまた守らなければならない事柄は聖書の中のどこかに極めて明白に提示され開陳されていて(詩19:7;119:130)、教育があるものだけでなく教育のないものも、通常の方法を適切に用いてこれを十分に理解できる。

8.(昔の神の民の言語であった)ヘブル語の旧約聖書(ロマ 3:2)と(著作の時代に諸国民に最も広く知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは神によって直接霊感され、神の特別な保護と摂理によってあらゆる時代に純正に保たれたので、信頼すべきものである(イザヤ8:20)。従ってすべての宗教上の論議において教会は究極的にはこれに訴えるべきである(使徒 15:15)。しかしながらこれらの言語は、聖書に接する権利と関心とをもち、神を恐れつつこれを読みまた探求するよう命ぜられている(ヨハネ5:39)すべての神の民に知られてはいないので、神の言葉が豊かにすべての人々に宿り(コロサイ 3:16)、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために、聖書に接するすべての国民の自国語に翻訳されるべきである(Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,28)。

9.聖書解釈の無謬の基準は聖書自身である(Ⅱペテロ1:20,21;使徒15:15,16)。従って聖書のどこでも(多用でなくたったの一つの)真実で完全な意味について疑問がある場合、もっと明白に語っている他の箇所によって探求されなければならない。

10. 宗教上のすべての論争を決裁し、会議のすべての決議、古代の著作家の見解、人々の教理、個人の精神を審査し、その判定に安んじて依拠すべき最高の審判者は聖霊によって与えられた聖書以外の何ものでもなく、そのように与えられた聖書にわれわれの信仰は最終的に帰着するのである(マタイ 22:29,31;エペソ 2:20;使徒28:23)。
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第二章 神および聖なる三位一体について

1.主なる我等の神は唯一の生ける真の神であり(Ⅰコリント 8:4,6; 申命 6:4)、その存在は(エレミヤ10:10; イザヤ48:12)御自身の中にまた御自身だけに基づき(出エジプト3:14)、存在と完全さにおいて無限、その本質は御自身の他何人にも知られず、最も純粋な霊であり(ヨハネ 4:24)、目に見えず(Ⅰテモテ 1:17;申命4:15,16)、身体も部分も欲情もなく、唯ひとり不滅をもち、何人も近づくことのできない光のうちに住み、不変(マラキ3:6)、遍在(Ⅰ列王8:27;エレミヤ 23:23)、永遠(詩 90:2)、不可測、全能(創世17:1)あらゆる点で無限、最も聖く(イザヤ6:3)、最も賢く、最も自由、最も絶対であり、すべてのことを御自身の不変で最も義しい御旨の計画に従って(箴16:4;ロマ11:36)御自身の栄光のために行い、最も愛と恩恵と憐れみと寛容とに満ち、善と真実に豊かで、不法、違反、罪をゆるし(出エジプト 34:6,7;ヘブル11:6)、熱心に彼を求める者に報いる方、その審判においては最も公正で(ネヘミヤ 9:32,33)恐るべく、すべての罪を憎悪し(詩 5:5,6)、とがある者を決してゆるさない方である(出エジプト34:7; ナホム1:2,3)。

2.神は御自身のうちに、御自身においてすべての生命 (ヨハネ 5:26)、栄光、善(詩119:68)、祝福を持ち、また御自身だけで御自身に対し、全く充足しておられ、彼が造られたどんな被造物をも必要とせず(ヨブ22:2,3)、それから何の栄光を得られることなく、御自身の栄光をそれらの中に、それらによって、それらに対して、それらの上に表わされる。神は全ての存在の唯一の本源であり(ロマ 11:34,35,36)、万物は彼から出て、彼によって成り、彼に帰する。神は御自身のよしとされることを何事でも万物によって、万物のために、また万物の上に行なうために、全被造物の上に至高の主権的支配権を持っておられる(ダニエル4:25; 5:34,35)。彼の目にはすべてのことが開かれて明らかであり(ヘブル4:13)彼の知識は無限、無謬、また被造物に依存せず(エゼキエル 11:5; 使徒15:18)、従って何一つとして彼には偶然とか不確実なものはない。神はそのすべての計画、すべての行為、すべての命令において最も聖であられる(詩145:17)。神に対しては、天使や人間が被造物として創造主に負う礼拝、奉仕、服従、そのほか神が彼らに要求するをよしとされる事はすべて、当然ささげられなければならない。

3.この神的な無限の存在者には同一の本質、能力、永遠性をもち、それぞれが完全なしかも分割されない神的本質を備えている(出エジプト 3:14; ヨハネ 14:11;Ⅰコリント 8:6)父、言(または子)、および聖霊の三つの人格がある(Ⅰヨハネ 5:7; マタイ 28:19; Ⅱコリント 13:13)。み父は何ものにもよらず、生れもせず、出もせず、み子は永遠に父から生れ(ヨハネ1:14,18),聖霊は父と子より出たが(ヨハネ15:26; ガラテヤ4:6)、みな無限で始めなく、それゆえに一人の神であり、その本性や存在においては分割されないが特有の相対的属性や人格的関係において区別される。この三位一体の教理は神とわれわれのすべての交わりおよび神への慰めにみちた依存の基礎である。
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第三章 神の聖定について

1.神は御自身で全き永遠から御自身の意志の最も賢く、聖い計画によって、起こり来たる全てのことを自由にまた不変的に定められた(イザヤ 46:10; エペソ 1:11;ヘブル6:17; ロマ 9:15,18)。しかし、それによって神は罪の作者とはならず(ヤコブ 1:15,17;Ⅰヨハネ1:5)、それといささかも関係を持たず、また被造物の意志に侵害が加えられることもなく、第二原因の自由や偶然性が奪われることもなく、むしろ確立されるようになされ(使徒4:27,28; ヨハネ19:11)、これによって全てのことを処理する知恵や、その聖定の遂行の権能や誠実をあらわされた(民数23:19; エペソ1:3,4,5)。

2.神は推定されるあらゆる状況のもとに生起するかも知れないことやまた生起することのできる事柄を全て知っておられるが(使徒 15:18)、それを未来のこと、またはその状況のもとで生起するに違いないと予見したから聖定されたのではない(ロマ9:11,13,16,18)。

3.神の聖定によって、神の栄光が現われるために、人間と天使のある者たちは、イエス・キリストにより神の栄光ある恩寵の讃美のため(エペソ 1:5,6)永遠の生命に予定され、前定されている(Ⅰテモテ 5:21; マタイ 25:41)。他の者は、神の栄光の公正にほまれあるために、自分の罪のうちに行動し正当な審判に至るようにされている(ロマ 9:22,23; ユダ 4)。

4.このように予定されたり、前定されている天使と人間は個別的にまた不変的に指定されており、その数も確実で決定されているので、増加も減少もできない(Ⅱテモテ2:19;ヨハネ 13:18)。

5.生命に予定された人々を、神は、世の基が置かれる前から永遠不変の目的と、み旨の隠れた計画とよしとされる所に従って、キリストにおいて永遠の栄光にと選ばれた(エペソ 1:4,9,11; Ⅱテモテ 1:9; Ⅰテサロニケ 5:9)。これは神の自由な恩寵と愛とだけによるものであり、被造物のうちにある何かが、神をこのように動かす条件や原因であったのではない(ロマ 9:13,16; エペソ1:6,12)。

6.神は、選ばれたものを栄光へと定められたので、み旨の永遠で最も自由な目的によって、それに至る全ての手段をもあらかじめ定められた(Ⅰペテロ 1:2; Ⅱテサロニケ2:13)。これにより、選ばれた者は、アダムにおいて堕落したが(Ⅰテサロニケ5:9,10)、キリストによって贖われ、時至って働くその御霊によって、キリストへの信仰にと有効に召され(ロマ8:30; Ⅱテサロニケ2:13)、義とされ、子とされ、み力によって信仰を通して救いに至るまで保たれる(Ⅰペテロ1:5)。他の者は誰もキリストによってわれ、有効に召され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることなく、ただ選ばれた者だけである(ヨハネ 10:26; 17:9; 6:64)。

7.予定というこの高度に神秘な教理は、御言葉に啓示された神のみ旨に留意し、またそれに従順に従う人々が、自分の有効な召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するように、特別な慎重さと注意とを持って取り扱われなければならない(Ⅰテサロニケ1:4,5; Ⅱペテロ 1:10)。それによってこの教理は、福音に真剣に従う人々すべてに、神への讃美と崇敬と賞讃の材料となり(エペソ 1:6; ロマ 11:33)、また謙遜と勤勉と(ロマ11:5,6)豊かな慰めの資料となる(ルカ10:20)。
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第四章 創造について

1.初めに、父・子・聖霊の神は(ヨハネ 1:2,3; ヘブル 1:2; ヨブ 26:13)、御自身の永遠の力と知恵と善の栄光を現わすために(ロマ1:20)、世界とその中にあるすべてのものを(コロサイ 1:16; 創世2:1,2)、見えるものも見えないものも、六日の間に、すべてをきわめて良く、創造することをよしとされた。

2.神は、他のすべての被造物を造られた後に、人間を、男と女に(創世1:27)、理性ある不死の霊魂をもち(創世 2:7)、創造された目的である神への生命にふさわしいものとして創造された。彼らは知識と義と真の聖において神の像に従って造られ(伝道7:29; 創世1:26)、心にしるされた神の律法と(ロマ 2:14,15)、それを実行する力を持ち、しかも違反する可能性の下で、変化しうる自分の意志の自由に委ねられた(創世3:6)。

3.心にしるされた律法のほかに、彼らは善悪を知る木から食してはならないとの命令をうけた(創世2:17; 3:8-10)。これを守っている間は彼らは神との交わりのうちに幸いであり、被造物を支配していた(創世1:26,28)。
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第五章 神の摂理について

1.万物の良き創造者である神は、その無限の力と知恵とにおいて、すべての被造物や事物を、大から小に至るまで(マタイ10:29-31)、最も賢く聖い摂理によって、彼らの創造された目的のために、無謬の予知と、御自身の意志の自由で不変のご計画に従って(エペソ1:11)、その知恵と力と公正と無限の善とあわれみの栄光の讃美へと、支え、導き、処理し、支配される(ヘブル1:3; ヨブ38:11; イザヤ46:10,11;詩135:6)。

2.第一原因である神の予知と聖定との関係において、万物は不変的に、誤りなく起こり(使徒 2:23)、何事も、偶然とか神の摂理なしに起こることはない(箴言 16:33)。とはいえ、同じ摂理によって神はそれらが第二原因の性質に従って、必然的にか自由にか、または偶然に起こるように定められている(創世8:22)。

3.神は、通常の摂理においては、手段を用いられる(使徒27:31,44; イザヤ55:10,11)。しかし御自身がよしとされる場合には、手段を用いないで(ホセア 1:7)、それを越え(ロマ4:19-21)、それに反して(ダニエル3:27)自由に行動される。

4.神の全能の力、測り知れない知恵、無限の善は、その摂理の中によく現われ、神の決定的な計画は、最初の堕落や、み使いと人の他の全ての罪深い行動にまで及んでいる(ロマ11:32-34; Ⅱサムエル24:1; Ⅰ歴代21:1)。しかも単なる許容によるのでなく、多様の配剤によって、神の最も聖い目的のために(創世50:20イザヤ10:6,7,12)、これを最も賢く、力強く制限したり(Ⅱ列王19:28;詩 76:10)、あるいは秩序づけ、支配される。しかも彼らの罪深い行動は、被造物からだけ出て、神から出るのではない。最も聖また義でいます神は、決して罪の作者でもその承認者でもなく、またありえない(詩50:21; Ⅰヨハネ2:16)。

5.最も賢く、義しく、恵み深い神は、しばしば御自身の子らを、しばらくの間、さまざまな試みや心の腐敗に任せられる。これは前に犯した罪に対する懲らしめのため、あるいは腐敗の隠れた力や心の欺きを、彼らに知らせて(Ⅱ歴代 32:25,26,31; Ⅱサムエル24:1; Ⅱコリント12:7-9)、彼らを謙遜にさせるためであり、彼らが支えられるには一層密接に、たえず神により頼むよう導くため、また将来のあらゆる罪の機会に対して警戒させるため、その他の正しく聖い目的の為である。このように、選ばれた者の上に起ることは、何事であれすべて、神の定めによるのであり、神の栄光と彼らの善のためである(ロマ8:28)。

6.邪悪で不敬虔な人々については、神は正しい審判者として、以前の罪のゆえに彼らを盲目にし、かたくなにされる(ロマ1:24,26,31; 11:7,8)。神は、彼らの理解を啓発し、心に働いている、神の恵みを差し止めるだけでなく(申命 29:4)、時には彼らがすでに持っている賜物さえも取り上げ(マタイ13:12)、彼らの腐敗が罪の機会になるような事柄に彼らをさらされる(申命 2:30; Ⅱ列王8:12,13)。その上、彼らを自己の肉の欲、世の誘惑、サタンの力に任せ(詩 81:11,12;Ⅱテサロニケ 2:10-12)、それによって、神が他の者の心を柔らかにするために用いる手段のもとでさえも、彼らは自分をかたくなにするようになる(出エジプト 8:15,32; イザヤ6:9,10;Ⅰペテロ2:7,8)。

7.神の摂理は、一般的にはあらゆる被造物に及ぶように、最も特別な方法では神の教会に配慮し、すべての事を、その益となるように処理する。(Ⅰテモテ 4:10;アモス9:8,9;イザヤ 43:3,4,5)。
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第六章 人間の堕落、 罪及びその刑罰について

1.神は人間を正しく完全に創造し、また守れば生命に至らせ(創世 2:16,17)、破れば死の脅威がある正義の律法を与えられたが、人間はこの栄誉の中に長くは留らなかった(創世3:12; 10:13;Ⅱコリント1:1,3)。サタンは蛇の奸計を用いてエバを唆し、ついで彼女に誘惑されてアダムが、何等の強制によらずに、禁断の木の実を食べることによって、かれらの創造の律法と与えられた命令を故意に破った。このことは神の賢い聖い計画に従って、それを御自身の栄光にする目的で、許容することをよしとされたものである。

2.我らの始祖はこの罪によって原初の義と神との交わりより堕落し(ロマ3:23)、我らは彼らのうちにあり、それゆえすべての者の上に死が来た(ロマ5:12以下)。 すべての者は罪の中に死んだ者、霊魂と肉体のすべての部分と機能において全く汚れたものとなった(テトス1:15; 創世6:5; エレミヤ17:9; ロマ3:10-19)。

3.彼らは根源であり(ロマ5:12-19;Ⅰコリント15:21,22,45,49)、また神の定めによって、全人類の代表者の位置に立っていたので、この罪のとがは、通常の出生によって彼らから出るすべての子孫に転嫁され、腐敗した性質は伝えられ、主イエスが解放しないかぎり(ヘブル 2:14;Ⅰテサロニケ 1:10)、今もなお罪の中にみごもり(詩51:5;ヨブ14:4)、生まれながらに怒りの子(エペソ 2:3)、罪の奴隷、死と他のあらゆる霊的、現世的、永遠的悲惨に服するものである (ロマ 6:20; 5:12)。

4.我等をすべての善に対して全くやる気をなくさせ、無能にし、反対させ、またあらゆる悪にたいして行なう気を起こさせている(ロマ8:7;コロサイ1:21)、この根源的腐敗によってすべての実際の違反が生じる(ヤコブ 1:14,15; マタイ 15:19)。

5.この本性の腐敗は、この世にある間、新生した者の中にも残る(ロマ7:18,23;伝道7:20; Ⅰヨハネ1:8)。それはキリストによって赦され、また克服さたが、それ自体もその最初の活動も共に、真実にまさしく罪である(ロマ 7:24,25;ガラテヤ5:17)。
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第七章 神の契約について

1.神と被造物との間の隔たりは極めて大きいので、理性的被造物が、彼らの創造主としての神に服従する義務を負っているにもかかわらず、神が契約という方法で表わすことをよしとされた、神の側のある自発的謙遜によらない限り(ルカ17:10; ヨブ35:7,8)、彼らは生命の報いを得ることはできなかった。

2.その上、人間はその堕落によって自らを律法の呪いのもとにおいてしまったので(創世2:17; ガラテヤ3:10; ロマ3:20,21)、主は恵みの契約を結ぶことをよしとされた。それによって、罪人に生命と救いをイエス・キリストによって価なしに提供し(ロマ8:3; マルコ 16:15,16; ヨハネ3:16)、彼らには救われるためにイエス・キリストへの信仰を要求し、そして永遠の生命に定められたすべての者が進んで信じ、また信じることができるために、聖霊を与える約束をされた(エゼキエル36:26,27;ヨハネ6:44,45; 詩110:3)。

3.この契約は福音のうちに啓示されている。最初にアダムに対して女の裔による救いの約束において(創世3:15)、後にはさらに進んだ手段によって表わされ、ついには完全な展開が新しい契約において完成した(ヘブル1:1)。この契約は御父と御子との間で選ばれた者の贖いについてなされた、永遠の契約の決定に基づいている(Ⅱテモテ1:9; テトス1:2)。この契約の恩恵によってのみ、堕落したアダムの子孫のうち、救われたすべての者が(ヘブル 11:6,13; ロマ4:1,2以下; 使徒4:12; ヨハネ8:56)、生命と祝福ある不死とを受ける。人間は今や、アダムが無罪の状態にいた時の条件では、神に受け入れられることは全くできない。
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第八章 仲保者キリストについて

1.神はその永遠の目的において、御自身のひとり子主イエスと結ばれた契約に従って、彼を神と人との間の仲保者(イザヤ42:1;Ⅰペテロ1:19,20)、預言者(使徒3:22)、祭司(ヘブル 5:5,6)、王(詩 2:6; ルカ 1:33; エペソ 1:23; ヘブル1:2; 使徒17:31)、神の教会のかしらまた救い主、万物の世嗣、世界の審判者として選び、任じることをよしとされた。神は永遠の昔から彼に、彼のすえとなる民を与え(イザヤ53:10; ヨハネ17:6;ロマ8:30)、時至って、彼によりて贖われ、召され、義とされ、聖とされ、栄光にいれられるようにされた。

2.聖なる三位一体の第二人格である神の御子は真の永遠の神、御父の栄光の輝きであり、御父と同一の本質また同等であり、世界を創造し、創造した万物を保ち、支配しておられる。御子は、時満ちるにおよんで自ら人間の本性(ヨハネ1:1,14;ガラテヤ4:4)、およびそれに伴うすべての本質的特性や共通の弱さをとられたが(ロマ 8:3; ヘブル 2:14,16,17;4:15)、罪はなかった。彼は聖霊により処女マリヤの胎に宿られた。聖霊は彼女に臨み、いと高き方の力が彼女を蔽ったので(ルカ1:27,31,35)、聖書に従って彼は女から、ユダ族から、アブラハムとダビデのすえとされた。そこでこの二つの、十分で、完全で、しかも異なっている性質が、変化も合成も混合もなしに、一人格のうちに不可分に結合された。この人格こそ、まことの神、またまことの人で、しかも一人のキリスト、神と人との間の唯一の仲保者である(ロマ9:5; Ⅰテモテ2:5)。

3.このように、主イエスは子としての神性に結合された人性において、聖霊によって限りなく、潔められ、油そそがれ(詩45:7; 使徒10:38;ヨハネ3:34)、御自身のうちにあらゆる知恵と知識の宝が備っていた(コロサイ2:3)。御父は彼のうちにすべての満ちみちたものが宿るのをよしとされた(コロサイ1:19)。これは彼が聖く、傷なく、汚れなく(ヘブル7:26)、恵みとまことに満ちて(ヨハネ1:14)、仲保者と保証人の職務を遂行するために、完全に備えられるためであった(ヘブル7:22)。この職務は彼が御自身で取られたのでなく、御父によって召されたものであり(ヘブル 5:5)、御父は彼の手にすべての権能と審判とを委ね、これを遂行するようにと彼に命じられた(ヨハネ5:22,27; マタイ28:18;使徒2:36)。

4.主イエスは、この職務を最も積極的に引き受け(詩 40:7,8; ヘブル10:5-11; ヨハネ10:18)、それを遂行するために律法の下におかれ(ガラテヤ 4:4; マタイ 3:15)、律法を完全に成就された。彼は我々が受け、また苦しむべき刑罰を受け(ガラテヤ3:13;イザヤ53:6;Ⅰペテロ3:18)、我々のために罪と呪いとなられ(Ⅱコリント5:21)、その霊魂において、最も激しい悲しみを忍び(マタイ26:37,38; ルカ22:44; マタイ27:46)、その肉体において、最も苦しい痛みに耐え、十字架にかけられて死に、死の状態に留まられたが、朽ち果てなかった(使徒 13:37)。三日目に、受難された同じ肉体をもって(ヨハネ20:25,27)、死者の中からよみがえり(Ⅰコリント15:3-4)、その体をもって天に昇られ(マルコ16:19;使徒1:9-11)、御父の右に座して執り成しておられ(ロマ 8:34; ヘブル 9:24)、世の終わりには、人間とみ使を審くために再び来られる(使徒 10:42; ロマ14:9-10;使徒1:11)。

5.主イエスは永遠の御霊によって、一たび神に献げられたその完全な服従と御自身の犠牲によって、神の義を全く満たされ(ヘブル 9:14; 10:14; ロマ 3:25,26)、御父が彼に与えられたすべての者のために和解を得、天国の永遠の嗣業を買いとられた(ヨハネ17:2; ヘブル9:15)。

6.罪の代価はキリストの受肉後まで、キリストによって実際に支払われなかったが(Ⅰコリント 4:10*;ヘブル4:2;Ⅰペテロ1:10,11)、その価値と効力と恩恵とは世の初めより引き続いて、すべての時代の選ばれた民に、約束、予型、犠牲の中に、またそれらを通して伝えられた。これらの中に、彼は蛇の頭を砕くべき女のすえ、世の初めから屠られる子羊(黙示13:8)として、きのうもきょうも永遠までも変ることのない方として、啓示され、表象されていた(ヘブル13:8)。

[*訳者注:聖句不適合]

7.仲保の業においてキリストは、両性に従って行動され、それぞれの性に固有なことをされる。しかしその人格の統一性のゆえに、一方の性質に固有なことが、聖書ではときどき、他方の性質でよばれる人格に帰されている(ヨハネ3:13;使徒20:28)。

8.キリストが永遠の贖いを成しとげられたすべての人に対して、彼はこれを確実に、有効に適用し、伝達される(ヨハネ6:37; 10:15,16; 17:9;ロマ5:10)。彼らのために執成しをし、みたまによって御自身と一つにし、みことばにおいて、またみことばによって救いの奥義を啓示し(ヨハネ17:6;エペソ1:9; Ⅰヨハネ5:20)、信じ従うように説得し(ロマ 8:9,14)、彼らの心をみことばとみたまによって治め、その全能の力と知恵とによってすべての彼らの敵を征服される(詩110:1;Ⅰコリント15:25,26)。これらはみな彼の不思議な、計り知れない計画に最もよく適合した手段と方法でなされ(ヨハネ3:8; エペソ1:8)、すべてそれを得るためには、彼らのうちにあらかじめ見られるいかなる条件にもよらない、全く自由で絶対の恵みである。

9.神と人との間のこの仲保者の職務は、神の教会の預言者、祭司、また王であるキリストにのみふさわしく(Ⅰテモテ 2:5)、その職務の全体にもせよ、一部にもせよ、彼から他のものに委譲されることはない。

10. この職務の数と種別は重要である。我々の無知のために、彼の預言者の職務を必要とし(ヨハネ1:18)、我々の神からの離反や、我々の最善の奉仕の不完全さは(コロサイ1:21; ガラテヤ5:17)、神と我々とを和解させ、神に受け入れられるように我々を献げるために、彼の祭司の職務を必要とし、また神に対する我々の嫌悪と神に帰るに全く無力なことから、我々の霊的敵対者より我々を救出し守るために、我々を説得し、服従させ、引き寄せ、支え、助け、保護して天の御国に至らせる、彼の王の職務を必要とする(ヨハネ16:8; 詩篇110:3; ルカ1:74,75)。
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第九章 自由意志について

1.神は、人間の意志に自己の選択に基づいて行動する本性的な自由や力を附与された。それは善または悪をなすようにと強制されたり、本性的ないかなる必然によっても決定されたりすることはない(マタイ17:12; ヤコブ1:14; 申命記30:19)。

2.人間は無罪の状態においては、善であり、神に喜ばれることを意志し、また行う自由と力とを持っていた(伝道7:29)。しかしそれは可変的で、従ってそこから堕落することもありえた(創世記3:6)。

3.人間は罪の状態に堕落することによって、救いを伴ういかなる霊的善への意志のあらゆる能力を失ってしまった(ロマ5:6; 8:7)。そこで生まれながらの人間として、その善に全く反対し、罪の中に死んだものとなったので(エペソ 2:1,5)自力では回心したり、その備えをすることはできない(テトス3:3-5; ヨハネ6:44)。

4.神が罪人を回心させて恩恵の状態に移される時、神は彼を罪のもとにある生まれながらの束縛より解放し(コロサイ1:13; ヨハネ8:36)、神の恩恵によってのみ、霊的善を自由に意志し、また行うことができるものとされる(ピリピ2:13)。しかしなお残っている腐敗のために、彼は完全にまたもっぱら善だけを意志しないで、悪をも意志する(ロマ7:15,18,19,21,23)。

5.人間の意志は、ただ栄光の状態においてだけ、完全にまた不変的に善への自由を持つ(エペソ4:13)。
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第十章 有効な召命について

1.神が生命に予定した人々を、神は自ら定めまた承認した時に、神のみことばと御霊によって (ロマ 8:30;11:7; エペソ 1:10,11;Ⅱテサロニケ 2:13,14)生れながらいた罪と死の状態から、イエス・キリストによる恩恵と救いへと(エペソ 1:1-6)有効に召すことをよしとされる。彼らの心が神のことを理解するように、霊的にまた救拯的に照し(使徒 26:18;エペソ1:17,18)、彼らの石の心をとり去って (エゼキエル36:26)肉の心を与え、彼らの意志を新たにし、神の全能の力によって彼らを善に向かうように決断させ (申命記30:6;エゼキエル36:27;エペソ1:19)、また有効的に彼らをイエス・キリストに引きよせる。しかも彼らは神の恩恵により自発的にされて、最も自由に来るのである (詩110:3;雅歌1:4)。

2.この有効な召命は、神の自由で特別な恩恵だけによるものであり (Ⅱテモテ 1:9;エペソ 2:8)、人の中に予見される何ものかによるものでも、また被造物の中の何かの力や働きが神の特別な恩恵と協力することによるものでもない(Ⅰコリント2:14; エペソ2:5; ヨハネ5:25)。人は聖霊によって生かされ、新たにせられ、それによってこの召命に答え、提供され、伝達された恩恵を受納することができるまでは、全くこの点については受け身であり、罪と咎の中に死んだものである。これもキリストを死より甦らせられた力による外はない(エペソ1:19,20)。

3.幼少時に死ぬ、選ばれた幼児は、よしとしたもう時と所と方法によって働かれる御霊を通して(ヨハネ 3:8)、キリストにより新たに生れ、救われる(ヨハネ 3:5,6)。御言葉の宣教によって外的に召されることのできない、他の選ばれた人々も同様である。

4.選ばれていない他の人々は、たとい御言葉の宣教で招かれ(マタイ22:14; 13:20,21;ヘブル 6:4,5)、御霊の一般的活動をうけても、み父によって有効に引き寄せられておらず、真にキリストに来ようともしないし、また来ることもできないので、救われることはできない(ヨハネ6:44-46; Ⅰヨハネ2:24,25)。ましてキリストの宗教を受入れない人々は、本性の光や、自分の告白する宗教の戒律に従って、どんなに熱心に自分の生活を築き上げても、救われることはできない(使徒4:12; ヨハネ4:22; 17,3)。
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第十一章 義認について

1.神は、有効に召した人々を価なしに義とされる(ロマ3:24; 8:30)。それは彼らに義を注入することによってではなく、彼らの罪を赦し、彼らの人格を義なるものとして認め受入れることによってである (Ⅰコリント1:30,31;ロマ5:17-19)。これは彼らの中で、また彼らによってなされた何かによるのではなく、ただキリストのゆえだけによる。信仰そのものや、信ずる行為、また他のいかなる福音的服従を、彼らの義として転嫁することによるのでなく(ピリピ3:8,9; エペソ2:8-9)、律法全体に対するキリストの能動的服従と、その死における受動的従順を彼らの完全でかつ唯一の義として転嫁することによってであり、彼らが信仰によってキリストとその義をうけ、それにより頼むことによる (ヨハネ1:12;ロマ5:17)。この信仰も彼ら自身からでるものでなく神の賜物である。

2.このようにキリストとその義を受けて、より頼む信仰が、義認の唯一の手段である(ロマ3:28)。しかし、義とされた人々にはこれだけでなく、常に他のすべての救いの恵みが伴い、死んだ信仰でなく、愛によって働くものである(ガラテヤ 5:6; ヤコブ2:17,22,26)。

3.キリストはその従順と死により、義としたすべての者の負債を全く支払われた。彼自身を犠牲とし、十字架の血によって、彼らの受けるべき刑罰を彼らに代って受け、彼らのために神の正義に対して適性、真実、全き償いをなされた(ヘブル10:14;Ⅰペテロ1:18-19; イザヤ53:5,6)。しかもキリストは、彼らのためにみ父によって与えられ、その服従と償いとは、彼らの身代りに受けられたものであり、両者とも、彼らの中にある何ものにもよらないで、価なしになされたので(ロマ8:32; Ⅱコリント5:21)、彼らの義認は全くの自由な恵みである。 これは神の厳正な公正と豊かな恩恵が、ともに罪人の義認において崇められるためである(ロマ3:26; エペソ1:6,7; 2:7)。

4.神は永遠の昔から、選ばれた者すべてを義とすることを聖定された(ガラテヤ3:8;Ⅰペテロ1:2;Ⅰテモテ 2:6)。キリストは時満ちて、彼らの罪のために死に、彼らの義認のために甦えられた(ロマ4:25)。しかし、聖霊が時至って実際にキリストを彼らに適用されるまでは、彼らは義とされない(コロサイ1:21,22テトス3:4-7)。

5.神は、義とされた者の罪を赦しつづけられる(マタイ6:12; Ⅰヨハネ1:7,9)。彼らは、義認の状態から決して落ちることができないが(ヨハネ 10:28)、それでも彼らの罪によって、神の父としての不興の下におかれることがある(詩 89:31-33)。その状態においては、彼らが自らへりくだって、罪を告白し、ゆるしを乞い、信仰と悔い改めとを再び新たにするまでは(詩 32:5; マタイ26:75)、通常、神のみ顔の光をとり戻せない。

 

6.旧約のもとでの信者の義認は、これらすべての点において、新約のもとでの信者の義認と全く同一であった(ガラテヤ3:9; ロマ4:22-24)。
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第十二章 子とされることについて

義とされた者すべてを、神はそのひとり子イエス・キリストによって、また彼のゆえに、子とする恩恵にあずかる者とされる(エペソ 1:5; ガラテヤ 4:4,5)。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け(ヨハネ 1:12; ロマ8:17)、神の御名を与えられ(Ⅱコリント 6:18; 黙示 3:12)、子とされた者の霊を受け(ロマ8:15)、臆することなく恵みの御座に近づき(ガラテヤ 4:6;エペソ2:18)、アバ父と呼ぶことができるようにされ、父からのようにあわれみを受け(詩103:13)、保護され(箴言 14:26)、必要を備えられ(Ⅰペテロ 5:7)、懲らしめを受けるが(ヘブル 12:6)決して捨てられず(イザヤ 54:8,9; 哀歌 3:31)、むしろ贖いの日のために証印され(エペソ4:30)、永遠の救いの相続人として、すべての約束を受けつぐ(ヘブル 1:14;6:12)。
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第十三章 聖化について

1.キリストに結合され、有効な召命をうけ、再生された者は、キリストの死と復活の力によって、彼らの内に創造された新しい心と新しい霊を持っているので、み言葉と彼らに内住する御霊によって(ヨハネ17:17; エペソ3:16-19;Ⅰテサロニケ5:21-23)、実質的に、人格的にさらに聖とされる(使徒 20:32; ロマ 6:5-6)。全身におよぶ罪の支配が破壊され(ロマ6:14)、そのいろいろな欲はますます弱められ、抑制される(ガラテヤ 5:24)。また、すべての救いの恩恵にますます生かされ、強くされ(コロサイ1:11)、主を見るためには誰にも不可欠なあらゆる真の聖潔の実践に向かって行くものとされる(Ⅱコリント7:1; ヘブル 12:14)。

2.この聖化は全人性にゆきわたるが(Ⅰテサロニケ 5:23)、この世にある間は未完成である(ロマ 7:18,23)。あらゆる部分になお腐敗の残りがとどまっているので、そこから絶えず相いれない戦いが生じ、肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう(ガラテヤ5:17;Ⅰペテロ2:11)。

3.この戦いにおいては、残っている腐敗が一時きわめて優勢になるとしても(ロマ7:23)、聖化するキリストの御霊からの絶えざる力の供給によって、再生の側が勝利を得る(ロマ 6:14)。こうして聖徒たちは、恵みに成長し、神を畏れつつ聖潔を完成して行き、(エペソ4:15,16; Ⅱコリント 3:18; 7:1)、かしらであり、王であるキリストがみ言葉のうちに定められたすべての命令に、福音的に服従しつつ、天の生活を追い求めて行く。
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第十四章 救いの信仰について

1.選ばれた者が、それによって魂の救いに至ると信じることができる信仰の恵みは、彼らの心の中に働くキリストの御霊のわざであって(Ⅱコリント 4:13;エペソ 2:8)、通常、み言葉の宣教によってなされ(ロマ10:14,17)、またそれと共に、バプテスマや主の晩餐の執行、祈祷、その他神が定められた手段によって増進され、強化される(ルカ17:5;Ⅰペテロ2:2; 使徒20:32)。

2.この信仰によってキリスト者は、神御自身の権威のゆえに、み言葉に啓示されているすべてを、真実なりと信じ(使徒 24:14)、その内に、他のいかなる文書や、世にあるあらゆるものにまさる優越性を認める(詩19:7-10;119:72)。み言葉は神の属性にある栄光、キリストの性質や職務にある優越性、聖霊の活動と働きにある力や充実性をあらわしているので、キリスト者はそのように信じた真理にその魂を委ねることができる(Ⅱテモテ1:12)。またそれぞれの章句が含む事柄に応じて異なって行動する。命令には服従し(ヨハネ15:14)、威嚇にはおののき(イザヤ 66:2)、この世と来るべき世についての神の約束は受け入れる(ヘブル11:13)。しかし、救いの信仰のおもな行為は、キリストと直接の関係を持っていて、恩恵の契約に基づいて、義認、聖化、永遠の生命のためにキリストだけを認め、受入れ、依り頼む(ヨハネ1:12; 使徒16:31; ガラテヤ2:20;使徒15:11)。

3.この信仰は、程度に強弱の差があるが(ヘブル5:13-14; マタイ6:30; ロマ4:19-20)、その最も弱いものであっても、(他の救いの恵みと同様に)、一時的な信者の信仰や一般恩恵とは種類、性質において全く異なっている(Ⅱペテロ1:1)。それゆえ、しばしば攻められ、弱められたりするが、勝利を得(エペソ 6:16;Ⅰヨハネ 5:4,5)、多くのうちに、信仰の創始者また完成者であるキリストによって(ヘブル12:2)、全き確信の獲得にまで成長する(ヘブル6:11;コロサイ2:2)。
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第十五章 生命と救いに至る悔い改めについて

1.成長してから回心させられた、選ばれた者は、それまで生まれつきのままの状態の中に生き(テトス3:2-5)、さまざまの欲や快楽に仕えていたが、神はこのような者に、有効な召命において生命に至る悔い改めを与えられる。

2.善を行って、罪を犯さない者はなく(伝道7:20)、最善の人も、その中に宿る腐敗の力や欺きにより、激しい誘惑をうけて、大きな罪や挑発に陥ることがあるので、神は、恵みの契約のうちに、そのように罪を犯し堕落した信者が、救いに至る悔い改めを通して、再び新たにされるようにと憐れみ深く備えられた(ルカ 22:31,32)。

3.この救いの悔い改めは福音の恵みであり(ゼカリヤ12:10;使徒11:18)、それによって人は、自分の罪のさまざまな悪を聖霊によって悟るようになり、キリストにある信仰によって、敬虔な悲しみと罪の憎悪、自己嫌悪とをもって自分を謙虚にし(エゼキエル 36:31;Ⅱコリント 7:11)、御霊の助けをうけて、何事も神に喜ばれるように、み前を歩むことを目的とし努力する、赦しと恩恵の力を祈り求める。

4.悔い改めは、死の肉体とその活動のゆえに、われらの全生涯を通じて続けられるべきであり、従って各自の個々の罪を、個別に悔い改めることが各人の義務である(ルカ19:8;Ⅰテモテ1:13,15)。

5.神は、恵みの契約において、キリストによって、信仰者を救いに保持するよう定められたので、どの様な小さい罪であっても滅びに至らないものはないとはいえ(ロマ6:23)、どの様な大きな罪でも、悔い改めた者に滅びをもたらすことはない(イザヤ1:16,18;55:7)。それで悔い改めについて絶えず宣べ伝えることが必要である。
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第十六章 善いわざについて

1.善いわざとは、神がその聖い御言葉で命じられたものだけであり(ミカ 6:8; ヘブル 13:21)、御言葉の保証なしに、盲目的熱心から、またはなんらかの善意の口実によって、人間が企図するものではない(マタイ15:9; イザヤ29:13)。

2.神の戒めに服従して行われるこれらの善いわざは、真の生きた信仰の結実、また証拠である(ヤコブ2:18,22)。これによって信者はその感謝を表わし(詩 116:12,13)、確信を強め(Ⅰヨハネ 2:3,5;Ⅱペテロ 1:5-11)、兄弟たちの徳を建て(マタイ5:16)、福音の告白を飾り、敵の口を封じ、神の栄光を表わす(Ⅰテモテ6:1;Ⅰペテロ2:15; ピリピ1:11)。信者はキリスト・イエスにあって、これらのことのために創られた神の作品であり(エペソ2:10)、聖潔に至る実を結び、終局である永遠の生命を持つようになる(ロマ6:22)。

3.善いわざを行う能力は、決して自分自身によるものではなく、全くキリストの御霊からである(ヨハネ15:4,6)。彼らがそれらを行う者となるためには、既に受けている恩恵のほかに、彼らの中に働いて、神が喜ぶことを志し、行わせる同じ御霊の実際的な働きかけが必要である(Ⅱコリント3:5; ピリピ2:13)。しかも御霊の特別な活動がなければ、何の義務を果たす責任もないかのように、このことに怠慢となってはならないし、むしろ自分の中にある神の恩恵を呼び起すことに勤勉でなければならない(ピリピ2:12;ヘブル6:11,12; イザヤ64:7)。

4.この世で可能な最高の服従に到達する人々でさえ、神の要求以上に行なったり、またそれを越えて行なうことができないだけでなく、果たさなければならない義務の多くのことにも達していない(ヨブ9:2,3; ガラテヤ5:17; ルカ17:10)。

5.我々の最善のわざによっても功績として、神のみ手から罪の赦しや、永遠の生命を得ることはできない。それは善いわざと来るべき栄光との差に甚だしい不釣合があり、神と我々との間に無限の距離があって、益することも、我々の前の罪の負債を償うこともできないからである(ロマ3:20,4:6; エペソ2:8,9)。我々がなし得る限りを全てなしたとしても、自分の義務を果したに過ぎず、無益なしもべでしかない。またそれが善であるのは、御霊から出ているからであり(ガラテヤ5:22,23)、我々によってなされることは、汚れや(イザヤ64:6;詩篇143:2)、多くの弱さ、不完全さが混入していて、神の審判の厳しさに耐えられない。

6.それにもかかわらず、信仰者そのものはキリストによって受け入れられ、彼らの善行もまた、キリストにおいて受け入れられる(エペソ1:6;Ⅰペテロ2:5)。それらがこの世で、神の目に全く非難され責められる点がないかのようではなくて、神がそれを御子において見られるゆえに、多くの弱さや不完全さを伴っていても、誠実なものを受け入れ、報いてくださることをよしとされる(マタイ25:21,23;ヘブル6:10)。

7.再生しない人々の行なう業は、たとえ、その事柄が神の命じられるものであり、自他共に有益であるとしても(Ⅱ列王10:30;Ⅰ列王21:27,29)、信仰によって潔められた心からでているのでなく(創世4:5;ヘブル11:4,6)、御言葉に従った正しい仕方からでもなく(Ⅰコリント13:1)、神の栄光という正しい目的のためでもないので(マタイ6:2,5)、それらは罪深く、神を喜ばせることはできず、神から恵みを受けるにふさわしくもない(アモス5:21,22; ロマ9:16; テトス3:5)。それでも、それを怠れば、彼らは一層罪深く、神の不興を増す(ヨブ21:14,15;マタイ25:41-43)。
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第十七章 聖徒の堅持について

1.神がその愛する御子により受入れ、御霊により有効に召し、潔め、貴い信仰を与えた神の選びの人々は、恵みの状態から、全面的にも、最終的にも堕落することはあり得ない(ヨハネ10:28,29; ピリピ1:6; Ⅱテモテ2:19; Ⅰヨハネ2:19)。かえって彼らは、その状態に最後まで確実に堅持し、永遠に救われる。神の賜物と召しとは変ることなく(従って神は彼らの内になおも信仰、悔い改め、愛、喜び、希望などの御霊の朽ちることのないすべての恵みを生み出し、育てられる)。多くの嵐や洪水が起こって彼らを打つことがあっても、信仰によって結びついている基礎や岩から、彼らを引き離すことは決してできない。それでも、不信仰やサタンの誘惑により、神の光や愛をみる視力が一時的に曇らされて、不明確になるかも知れないが(詩 89:31,32; Ⅰコリント11:32)、神はそれでも変ることがなく(マラキ 3:6)、彼らは、神の力によって、永遠から彼らが神の手のひらに刻みつけられ、生命の書にその名が録されている贖われた状態を享受する救いにまで確実に守られる。

2.聖徒のこの堅持は、彼らの自由意志にではなく、父なる神の自由で、不変な愛より出る選びの聖定の不変性と(ロマ 8:30; 9:11,16)、イエス・キリストの功績と執成しの効力(ロマ 5:9,10; ヨハネ 14:19)、キリストとの一致、神の誓い(ヘブル 6:17,18)、御霊と神の種の彼らへの内住(Ⅰヨハネ 3:9)および恵みの契約の性質に依存している。これらすべてから堅持の確実性と無謬性がでてくる。

3.たとえ彼らがサタンと世の誘惑、自分の内に残存する腐敗の優勢、自分を保持する手段を怠ることによって、憂うべき罪に陥り(マタイ 26:70,72,74)、しばらくそのうちに留ることがあり、これによって、彼らが神の不興を招き(イザヤ64:5,9; エペソ 4:30)、神の聖霊を憂えさせ、慰めや恩恵を失い(詩51:10,12)、心を頑なにし、良心をそこない(詩32:3,4)、他の人々を傷つけ、はずかしめ、自分に一時的審判をもたらすことがあっても(Ⅱサムエル 12:14)、なおも彼らは悔い改めを新たにし(ルカ 22:32,61,62)、キリスト・イエスへの信仰によって終わりまで堅持される。
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第十八章 恩恵と救いの確信について

1.たとえ一時的な信者や他の再生しない人々が、神の愛顧と救いの状態にあるという偽りの希望や、肉的傲慢をもって自分を空しく欺いたとしても(ヨブ8:13,14;マタイ7:22,23)、彼らのこの希望は消失してしまう。しかし主イエスを真実に信じ、誠実に愛し、御前に全く善い良心をもって歩こうと努める人々は、確実にこの世にあって自分が恩恵の状態にあることを確信させられ(Ⅰヨハネ 2:14,18,19,21,24; 5:3)、神の栄光の希望を喜び、この希望は決して彼らを失望に終わらせない(ロマ5:2,5)。

2.この確実性は、誤りやすい希望に基づいた単なる推量や、憶測による信念ではなく(ヘブル 6:11,19)、福音に啓示されたキリストの血と義とに基づく誤りのない信仰の確信である(ヘブル6:17,18)。それはまた、この約束がなされた御霊の恩恵の内的証拠(Ⅱペテロ1:4,5,10,11)や、我々が神の子であることを我々の霊と共に証言する子たる身分を授けられた御霊の証明(ロマ 8:15,16)に基づき、御霊の果として、心が謙遜に、かつ潔く保たれる(Ⅰヨハネ3:1-3)。

3.この誤りない確信は、信仰の本質に属していないので、真の信者でもそれを得るまでには長く待つとか、多くの困難と戦うかもしれないが(イザヤ 1:10;詩 88;77:1-12)、神から自分に自由に与えられている事柄を、御霊によって知るようにされているので、特殊な啓示なしに通常の手段の正しい使用によって、これに到達できる(Ⅰヨハネ4:13; ヘブル6:11,12)。従って、自分の召命と選びを確かにするよう勤勉をつくすことは、すべての者の義務であり、それによって彼の心は、聖霊にある平和と喜び、神への愛と感謝、服従の義務を果す力と喜びという、この確信にふさわしい結実に富むようになり(ロマ5:1,2,5;14:17 詩119:32)、人を放縦に傾かせるようなことはない。

4.真の信者も、この確信を堅持することの怠慢(雅歌 5:2,3,6)、良心を傷つけ御霊を憂えさせる特殊な罪に陥ること(詩51:8,12,14)、突然の、あるいは激しい誘惑(詩116:11;77:7,8; 31:22)、神がみ顔の光を隠されたり、暗黒の中を神を恐れる者が光なしに歩くような苦難(詩30:7)などのさまざまの方法によって、救いの確信が動揺、弱め、中断させられることがある。しかし彼らは決して神の種や(Ⅰヨハネ3:9)、信仰の生命(ルカ22:32)、キリストと兄弟たちへの愛、誠実な心、義務への良心を失うことはない。これらから御霊の働きによってこの確信は、適切な時に回復され(詩 42:5,11)、またこれらによって、その間も全くの絶望に陥らないように支えられる(哀歌3:26-31)。
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第十九章 神の律法について

1.神はアダムに、その心に記した普遍的な服従の律法を与えられ(創世 1:27; 伝道 7:29)、また善悪を知る木の実を食すなとの特別な命令を与えられた。これによって彼とそのすべての子孫に人格的な、全き、厳密な、永続的な服従の義務を負わせ(ロマ10:5)、それを守ることで生命を約束し、破ることで死の威嚇をし(ガラテヤ3:10,12)、それを守る力と能力を彼に授けられた。

2.人の心に最初に記されたこの律法は、堕落後も義の完全な基準として継続し(ロマ 2:14,15)、神によってシナイ山で十戒として申し渡され(申命記10:4)二枚の石板に書かれた。最初の四つの戒めは、神に対する我々の義務を、他の六つの戒めは、人間に対する我々の義務を含んでいる。

3.通常、道徳律法と呼ばれているこの律法のほかに、神はイスラエル民族に対して儀式律法を与えることをよしとされた。これは、一部はキリストとその恩恵、行為、苦難、祝福を予表する礼拝に関するもの(ヘブル10:1; コロサイ2:17)、一部は道徳的義務の種々な教訓を提示する予表的規定を含んでいる(Ⅰコリント5:7)。この儀式律法はみな改革の時まで定められたものであり、真のメシヤであり、唯一の立法者であり、御父からそのために権能を受けたイエス・キリストにより廃棄され、取り除かれた(コロサイ2:14,16,17; エペソ2:14,16)。

4.神はまた彼らにさまざまの司法的律法を与えられた。これはその民の国家とともに終わり、その規定のゆえに今は義務づけられておらず、その一般的公正さだけが道徳的な有用性をもっている(Ⅰコリント9:8-10)。

5.道徳律法は、義と認められた者にも他の者にもすべてに永久に服従を義務づける(ロマ13:8-10; ヤコブ2:8; 10-12)。その内に含まれている事柄のゆえだけでなく、それを与えられた創造者である神の権威のゆえにもよる(ヤコブ2:10,11)。キリストも福音においてこの義務を解消することなく、かえって大いにそれを強化されている(マタイ5:17-19; ロマ3:31)。

6.真の信者はわざの契約について、律法の下にはいないので、これによって義と認められたり罪に定められたりしないとはいえ(ロマ 6:14;ガラテヤ 2:16;ロマ8:1;10:4)、この律法は彼らにも他の者にもきわめて有用である。それは生活の基準として彼らに神の御旨と彼らの義務を知らせ、これに従って歩むように導き、拘束し(ロマ 3:20; 7:7など)、彼らの性質、心、生活の罪深い汚れをあらわし、それによって彼ら自身を探り、一層進んだ罪の確認と謙遜と罪への憎しみに至るようになり、それと共にキリストとその従順な完全とを必要としている自分を一層明白に悟るようになる。この律法はまた再生した者に対しては、罪を禁止して彼らの腐敗を制御するのに有用であり、その威嚇は彼らが呪いや仮借のない厳しさから解放されているとしても、彼らの罪が何に相当し、また罪のためにこの世でいかなる苦難を予期するべきかを示すのに役立つ。同様に律法の約束は、彼らの服従に対する神の嘉納と、それを成就するに当って、わざの契約としての律法によって当然の報いではなく、いかなる祝福を期待できるかを示す。そこで、律法では善をすすめ、悪を抑制しているという理由で人が善を行ない悪を避けても、それは彼が律法の下にあって恩恵の下にはいないという証拠にはならない(ロマ6:12-14; Ⅰペテロ3:8-13)。

7.律法の前述の効用は福音の恩恵と矛盾せず(ガラテヤ3:21)、むしろそれと美しく一致しており、キリストの御霊は、律法に啓示された神の御旨が行なうようにと要求していることを、自由にしかも喜んでなすように、人の意志を従わせ、それを得させられる(エゼキエル36:27)。
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第二十章 福音及びその恩恵の範囲について

1.わざの契約が罪によって破られ、生命に至るに適さなくなったので、神は選ばれた者を召し、彼らの中に信仰と悔い改めを生じさせる手段として、女のすえであるキリストの約束を与えることをよしとされた(創世記3:15)。この約束において福音の本質は啓示され(黙示13:8)、これが罪人の回心と救いに有効なものとなった。

2.キリストと彼による救いのこの約束は、ただ神の言葉によって啓示されている(ロマ1:17)。自然の光による限りでは、神の創造の御業も、摂理も、一般的または漠然的にもせよ、キリストと彼による恩恵を明らかにしない。まして約束すなわち福音によるキリストの啓示なしに、人は救いの信仰または悔い改めに至ることはできない(箴言29:18; イザヤ25:7; 60:2,3)。

3.罪人に対する福音の啓示は、これを与えられた民族や個人に約束とその中で要求された服従の教えを伴って、いろいろな時に、さまざまな方法でなされたが、全く神の主権的意志と善意から出ている(詩篇147:20; 使徒16:7)。それは、誰もなし得なかった、またなし得られない生れつきの能力の適正な改善に基づくいかなる約束によっても、福音の啓示をもたない自然の光によっても、附加されない(ロマ1:18以下)。それゆえ、福音の宣教はあらゆる時代において、神の意志のご計画に従って、各個人各民族に対し、その広がりや狭さは多様に、与えられた。

4.福音はキリストと救いの恩恵を啓示する唯一の外的手段であり、そのために全く十分であるにもかかわらず、咎のうちに死んだ人間が新しく生れ、生かされ、再生されるには、かれらのうちに新しい霊的生命を作り出すために、霊魂全体への有効で不可抗的な聖霊の働きが必要である(詩篇 110:3;Ⅰコリント 2:14; エペソ 1:19,20)。これなしには他のいかなる手段も神に至る回心に有効ではない(ヨハネ6:44; Ⅱコリント4:4,6)。
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第二十一章 キリスト者の自由と良心の自由について

1.キリストが福音のもとにある信者のために買い取られた自由は、罪責、神の断罪の怒り、律法の責苦や呪いからの自由(ガラテヤ3:13)と、今の悪の世(ガラテヤ 1:4)、サタンへの隷属(使徒 26:18)、罪の支配から(ロマ 8:3)、死の恐れととげ(Ⅰコリント 15:54-57)、墓の勝利、永遠の刑罰(Ⅱテサロニケ 1:10)からの解放と、その上に神への自由な接近(ロマ8:15)、奴隷的恐れからでなく子のような愛と自発的意志(ルカ 1:74,75; Ⅰヨハネ4:18)から出た神への服従である。これらは実質的には、律法の下にある信者たちにも共通であったが(ガラテヤ3:9,14)、新約の下にあってキリスト者の自由は、ユダヤ人教会が服していた儀式律法の軛からの自由や、恩恵のみ座への一層大胆な接近、神の自由の御霊とのより充実した交わりにおいて、律法の下にいた信者たちが通常受けていた以上に拡大されている。

2.神だけが良心の主であり(ヤコブ4:12; ロマ14:4)、すべての事において神の御言葉に反したり、御言葉に含まれていない人間の教理や戒めより、良心を自由にされた(使徒4:19; 5:29; Ⅰコリント7:23; マタイ15:9)。それゆえ良心を離れてこのような教理を信じ、このような戒めに従うことは、良心の真の自由に背くことになる(コロサイ2:20,22,23)。盲従的信仰や絶対的盲目的な服従を要求することは、良心の自由や理性を破壊することである(Ⅰコリント3:5;Ⅱコリント1:24)。

3.キリスト者の自由を口実にして、罪を犯したり、罪深い欲望を抱く者は、それによって福音の恩恵の主要目的を歪めて自分自身の滅亡を招き(ロマ 6:1,2)、キリスト者の自由の目的すなわち、すべての我らの敵の手より救い出された我々が、生きている限り主の前に聖と義をもって恐れなく主に仕えることを全く破壊する(ガラテヤ5:13;Ⅱペテロ2:18-21)。
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第二十二章 宗教的礼拝および安息日について

1.自然の光は、神が存在され、万物の上に主権と統治権を持ち、義と善にして、万物に善を行なわれ、それゆえに心をつくし、精神をつくし、力をつくして畏れ、愛し、讃美し、呼ばわり、信頼し仕えられるべき方であることを示している(エレミヤ 10:7;マルコ12:33)。しかし、真の神を礼拝するにふさわしい方法は、神ご自身でこれを定め(申命記 12:32)、御自身が啓示された御心により限定されているので、人間の想像や工夫、または悪魔の示唆に従って、いかなる可視的な表現や、聖書に規定されていないその他の方法によって礼拝してはならない(出エジプト20:4-6)。

2.宗教的礼拝は、父・子・聖霊の神に、ただこの神にのみささげられ(マタイ 4:9,10;ヨハネ5:23; マタイ28:19)、天使や聖徒や他の被造物にささげられてはならない(ロマ1:25; コロサイ2:18; 黙示録19:10)。堕落以来、仲保者なしに(ヨハネ14:6)、キリスト以外の他のいかなる仲保によってもささげられてはならない(Ⅰテモテ2:5)。

3.感謝をともなう祈祷は、本来の礼拝の特別な部分であり、神がすべての人に要求しておられる(詩篇95:1-7; 65:2)。しかしそれが受け入れられるためには、御子の名において(ヨハネ14:13,14)、御霊の助けにより(ロマ8:26)、御心に従って(Ⅰヨハネ5:14)、理解、畏敬、謙遜、熱心、信仰、愛、忍耐をもって、また他の人と共に祈る時はよく知られた言葉で祈るべきである(Ⅰコリント14:16,17)。

4.祈祷は合法的な事柄のため、あらゆる種類の生きている人や、今後生まれてくる人のために、ささげるべきである(Ⅰテモテ2:1,2; Ⅱサムエル7:29)。しかし死人(Ⅱサムエル12:21-23)や、死に至る罪を犯したと知られている人々のためにするべきでない(Ⅰヨハネ5:16)。

5.聖書を読み(Ⅰテモテ 4:13)、説教し神のみ言葉を聞き(Ⅱテモテ 4:2; ルカ 8:18)恵みに感じて主に向かって詩と讃美と霊の歌を歌い、互いに教えまた勧めることは(コロサイ 3:16; エペソ 5:19)、バプテスマや(マタイ 28:19,20)主の晩餐の執行(Ⅰコリント11:26)とともに、みな宗教的神礼拝の要素である。それらは、神に対する従順のうちに理解と信仰と敬虔と畏れをもってなされるべきであり、さらに特別な機会には断食を伴う厳粛な謙遜(エステル4:16; ヨエル2:12)、また感謝(出エジプト 15:1以下; 詩篇107篇)が聖い宗教的態度で用いられるべきである。

6.祈祷も他の宗教的礼拝のどのような要素も、今や福音の下では、それが行われる場所やそれが向けられている所と結びつけられたり、一層よく受入れられたりすることはない(ヨハネ4:21; マラキ1:11; Ⅰテモテ2:8)。むしろ神は霊と真をもってあらゆる場所で礼拝されるべきであり、日ごとに家庭で(使徒10:2マタイ6:11; 詩篇55:17)、個人が隠れた所で(マタイ6:6)、公同の集会では一層厳粛に礼拝されるべきである。神が御言葉や摂理によってそこに招かれる時に、不注意やまたは故意に公同の礼拝を無視したり、放棄したりしてはならない(ヘブル10:25; 使徒2:42)。
7.神の定めに従い、一般に適正な割合の時間を神礼拝にあてるのが自然の法則であるように、神は御言葉によって、すべての時代のあらゆる人に義務を負わせる積極的、道徳的、恒久的な命令で、七日のうちの一日を特に安息日と定めて、神に対して聖く守るようにされた(出エジプト20:8)。それは世の初めからキリストの復活までは一週の終りの日であったが、キリストの復活以後は一週の初めの日に変えられ、主日と呼ばれている(Ⅰコリント16:1,2; 使徒20:7黙示録1:10)。これは世の終りまでキリスト教安息日として継続されるべきであり、週の終りの日を守ることは廃された。

8.それで安息日は、人が自分の心の適正な準備をし、日常の用務を前もって整えた後、この世の職業、娯楽についての自分の行ない、言葉、思いから離れて、その日一日きよい休息を守るだけでなく(イザヤ58:13;ネヘミヤ13:15-23)、すべての時間を公的また私的に神を礼拝し、必要な義務と憐れみの業を行なうために用いるべきである(マタイ12:1-13)。
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第二十三章 合法的宣誓と誓約について

1.合法的宣誓は、宗教礼拝の一部であり(出エジプト20:7;申命記10:20;エレミヤ4:2)、人が真実と正義と公正をもって宣誓するに際し、神が自分の宣誓の証人となり、宣誓の真偽に従って裁いてくださるように厳粛に神を呼び求める(Ⅱ歴代6:22,23)。

2.神の御名だけが人が宣誓するに依るべきものであり、御名は全く聖い畏れと尊敬をもって用いられなければならない。それゆえ、この栄光ある恐るべき御名によって、空しく軽はずみに宣誓したり、または他の何かによって宣誓することは罪深く嫌悪すべきである(マタイ5:34,37;ヤコブ5:12)。とはいえ、真実の確証のための重要かつ緊急の事柄とか争いを止めさせる事柄においては(ヘブル6:16; Ⅱコリント1:23)、神の御言葉によって宣誓は保証されているので、合法的権威によって課せられるそのような事柄についての合法的宣誓はなされるべきである。(ネヘミヤ13:25)。

3.神の御言葉の保証によって宣誓する者は誰でも、このように厳粛な行為の重大性を正 しく考慮すべきであり、真実であると知っている事の外は何事も公言してはならない。主は軽率な偽った空しい宣誓を憤られ、それによって国(民)は憂える(レビ19:12;エレミヤ23:10)。

4.宣誓は平易で普通の意味の言葉で、あいまいな言葉や心の中の留保なしになされるべきである(詩篇24:4)。

5.誓約はいかなる被造物ににむかってもなしてはならず、ただ神にのみなすべきである(詩篇76:11;創世記28:20-22)。それは十分な宗教的注意と忠実さをもってなされ果されなければならない。終生の独身(Ⅰコリント 7:2,9)、清貧の誓約(エペソ4:28)、修道規則の遵守などの教皇制度の誓約は、より高い完全への段階でないばかりか、むしろ迷信的で罪のわなであるから(マタイ 19:11)キリスト者は誰もこれに係わり合ってはならない。
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第二十四章 国の為政者について

1.全世界の最高の主であり王である神は、御自身の栄光と公共の福祉のために、為政者を神の下、民の上にあるようにと制定された(ロマ13:1-4)。そしてこの目的に沿って善を行なう者を守り励まし、悪を行なう者を罰するために彼らに剣の権能を備えられた。

2.キリスト者が為政者の職務に召された時、それを受けて執行することは合法的である。その職務の執行に際して、それぞれの国の健全な法律に従って、特に公正と平和を維持すべきであり(Ⅱサムエル23:3; 詩篇82:3,4)、その目的のため、新約のもとにある今でも、正当でまたやむを得ない場合には合法的に戦争をすることがある(ルカ3:14)。

3.為政者は前述の目的のために神に立てられた者であるから、彼らが命じるすべての合法的なことに、怒りを避けるためだけでなく良心のために従うのは、主にある我等のなすべきことである(ロマ13:5ー7; Ⅰペテロ2:17)。また王たちや権威をもつ者たちのために祈りやとりなしをすべきであり(Ⅰテモテ2:1ー2)、これは彼らのもとで我等が敬虔と謹厳をつくして安らかで静かな生涯を過すためである。
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第二十五章 結婚について

1.結婚は一人の男と一人の女の間に行なわれるべきものであり(創世記 2:24;マラキ2:15; マタイ 19:5ー6)、どのような男でも一人以上の妻を、どのような女でも一人以上の夫を同時にもつことは合法的でない。

2.結婚は、夫婦の相互の助け合いのため(創世記2:18)、正当な出産による人の増加のため(創世記1:28)、汚れの防止のため(Ⅰコリント7:2、9)に制定された。

3.自分の判断において承諾を与えることができるあらゆる人が結婚するのは、合法的である(ヘブル13:4;Ⅰテモテ4:3)。しかし、主にあっての結婚だけがキリスト者の義務である(Ⅰコリント7:39)。それゆえ真の信仰を告白する者は、不信仰者や偶像礼拝者と結婚してはならない(ネヘミヤ13:25ー27)。また敬虔な人は、生活において邪悪な者や、呪われるべき異端を支持する者と結婚して釣り合わないくびきをつけてはならない。

4.結婚はみ言葉で禁じられている血族や姻族の親等内でなされてはならない(レビ18章)。またこのような近親結婚は、人間のどんな法律とか当事者の同意によっても、彼らが夫婦として共に住むように合法化することはできない(マタイ6:18;Ⅰコリント5:1)。
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第二十六章 教会について

1.公同、または普遍の教会は、(聖霊の内的働きや恩恵の真理に関連して)見えない教会と呼ばれ、そのかしらであるキリストのもとに過去、現在、未来を通じて一つに集められる選ばれた者の全員から成る(ヘブル 12:23; コロサイ 1:18; エペソ1:10,22,23; 5:23,27,32)。それは、全てのものをもって全てのものに満たされる方の花嫁、からだ、また満ちているものである。

2.全世界を通じて福音の信仰を告白し、それに従ってキリストにより神に服従し、その基礎を覆すような過誤や不潔な生活によって自らの告白を無にしないすべての人は(Ⅰコリ 1:2; 使徒 11:26)、見える聖徒であり、そう呼ばれ(ロマ 1:7; エペソ1:20-22)、すべての各個教会はこれらの人々によって成立されるべきである。

3.地上の最も純粋な教会といえども混入物と過誤を受けやすく(Ⅰコリ15章; 黙示録2,3章)、ある教会はもはやキリストの教会ではなくサタンの会堂となるほどに堕落した(黙示録18:2;Ⅱテサロニケ2:11,12)。それにもかかわらずキリストは常に、彼を信じその御名を告白する人々の王国をこの世に存在させておられ、世の終わりに至るまで存在させられる(マタイ 16:18; 詩篇72:17; 102:28; 黙示録12:17)。

4.主イエス・キリストは、教会のかしらであり、父の定めによって、教会を召し、起こし、秩序をたて、教会を統治する権能を最高かつ主権的方法で受けられた(コロサイ1:18; マタイ28:18-20; エペソ4:11,12)。ロマ教皇はどのような意味でもそのかしらでなく、むしろ反キリスト、罪の人、滅びの子であり、教会においてキリストとすべて神と呼ばれるものとに逆らって自分を高くする者であり、主は降臨の輝きをもってこれを滅ぼされる(Ⅱテサロニケ2:3-9)。

5.主イエスは託されたこの権能の遂行にあたって、御霊により、御言葉の宣教を通して父が彼に与えられた者たちをこの世から御自身へと召される(ヨハネ10:16;12:32)。これは彼らがその御前で御言葉に定められたあらゆる服従の道に歩むためである(マタイ 28:20)。このように召した者たちに、彼はこの世で彼らに要求された相互の建徳と公の礼拝を正しく行なうため、各個の集会または教会において共に歩むことを命じておられる(マタイ18:15-20)。

6.これらの教会の会員は召しによる聖徒であり(ロマ1:9; Ⅰコリント1:2)、(告白と歩みのうちに、またこれらによって)キリストの召しに対する彼らの服従を見えるように表わしまた証明する。彼らはキリストの命令に従って共に歩むことに喜んで同意し、福音の定めに対する服従の告白をもって神の御心により己を捨てて主にささげ、また互いにささげ合うのである(使徒2:41,42; 5:13,14; Ⅱコリント9:13)。

7.御言葉に宣言された御心に従って、このように集められた教会のそれぞれに対して、神が守るように命じられた礼拝と訓練の秩序を遂行するのに必要なすべての権能と権威を神は与え(マタイ18:17,18; Ⅰコリント5:4,5,13)、この権能を正しく行使するための命令や規定を与えられた。

8.キリストの御心に従って集められ、十分に組織された各個の教会は役員と会員によって成立する。役員はキリストに任命され、(そのように召され集められた)教会によって選ばれ、聖別される。彼等は監督または長老と執事であって、礼典の執行と、キリストが委託し、召された権能と義務の遂行に当たり、それは世の終りまで継続されるべきである(使徒20:17,28; ピリピ1:1)。

9.聖霊によって適する者、賜物を与えられた者として教会の監督または長老の召命を受けた人がキリストによって任じられる方法は、教会自体の一般選挙によってその地位に選ばれることである(使徒 14:23)。その人は断食と祈祷によって厳粛に聖別され、すでに任命されている長老がいればその按手を受ける(Ⅰテモテ4:14)。執事も同様に選挙によって選ばれ、祈祷によって聖別され、同様に按手を受ける(使徒6:3,5,6)。

10.牧師の働きはその教会において常にキリストへの礼拝を指導し、御言葉と祈祷の奉仕をなし、魂を見守り、キリストに弁明をしなければならない(使徒6:4;ヘブル13:17)。教会は奉仕する牧師に対して適切な尊敬を払うだけでなく(Ⅰテモテ 5:17,18; ガラテヤ 6:6,7)、彼らが不足なく支給を受けて世俗のことに煩わされないよう(Ⅱテモテ2:4)、また人々を親切にもてなすことができるよう(Ⅰテモテ3:2)、教会の力に応じて、すべての良き物を分け合う責任がある。これは自然の法則の要求であり、福音を伝える者は福音によって生活すべきものと定めた我等の主イエスの明らかな命令による要求でもある(Ⅰコリント9:6-14)。

11.教会の監督または牧師が、職務上常に御言葉の宣教に当たるのは当然であるが、御言葉の宣教の業は彼らに特に限られていない。聖霊によって賜物が与えられ、適任者とされ、教会によって認められ、召された他の人々もこれを行なうことができるし、また行うべきである(使徒 11:19-21;Ⅰペテロ4:10,11)。

12.すべての信者は機会が与えられた時と所で個別教会に参加すべきである。このようにして教会の権利に受け入れられた者はすべてキリストの規範に従って、その教会の訓戒や統治の下におかれる(Ⅰテサロニケ5:14; Ⅱテサロニケ 3:6,14,15)。

13.教会員は他の教会員が罪を犯した場合、躓きを与えた者に対して要求されている義務を果した後、その者がそのような躓きを与えたという理由で教会の秩序を乱したり、教会の集会に欠席したり、礼典の参加を回避すべきではなく、むしろ教会のその後の処置を通してキリストを待ち望まなければならない(マタイ18:15-17;エペソ4:2-3)。

14.それぞれの教会およびその会員は、あらゆる所にあるすべてのキリストの教会の権利と繁栄のために絶えず祈らなければならない(エペソ 6:18; 詩篇 122:6)。またあらゆる機会に(場所と召しとを同じくする者はその賜物と恩恵を用いて)祈りを深め、(神の摂理によって機会と利益と共に受けるように建てられた)諸教会が平和の交わり、愛の増進、相互の建徳を保たなければならない(ロマ 16:1-2;Ⅲヨハネ8-10)。

15.教理や教会政治に関して困難や異論が起こった場合、それが諸教会一般に関連するものであれ、またはある一教会の平和、一致、建徳に関してであれ、または教会の会員が真理や秩序に一致しないという非難の処置で悩むのであれ、交わりを共にする多くの教会が使者を派遣して考慮し(使徒 15:2,4,6,22,23,25)、忠告を与え、異論のある点については関連諸教会に報告するのはキリストの御心にかなうことである。しかし、これらの使者たちの集まりは、教会や会員を譴責したり、教会や役員にその決定を強制したりする教会の権能と本来呼ばれている力や、諸教会に対する支配権を託されてはいない(Ⅱコリント1:24;Ⅰヨハネ4:1)。
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第二十七章 聖徒の交わりについて

1.キリストの御霊により、また信仰によって、かしらであるイエス・キリストに結合されているすべての聖徒は、それによってキリストと一人格にされてはいないが、その恩恵、苦難、死、復活、栄光にあずかる(Ⅰヨハネ1:3; ヨハネ 1:16;ピリピ3:10;ロマ6:5,6)。また彼らは愛において互いに結合されて、相互に賜物や恩恵を分け合い(エペソ4:15,16;Ⅰコリ 12:7;3:21-23)、内なる人と外なる人において相互の益をもたらすように、秩序正しく、公私の義務を果さなければならない(Ⅰテサロニケ5:11,14; ロマ1:12;Ⅰヨハネ3:17,18; ガラテヤ6:10)。

2.信仰の告白をした聖徒たちは、神礼拝や、彼ら相互の建徳に役立つ他の霊的な奉仕を実行し(ヘブル 10:24,25; 3:12,13)、彼らのさまざまな能力と必要に応じて互いに外的な事柄で助け合うことで(使徒12:29,30)、聖なる交わりや親しみを保たなければならない。このような福音の規範に基づく交わりは、彼らが持っている関係、すなわち家庭(エペソ 6:4)や教会(Ⅰコリント12:14-27)において特に実行されなければならないが、さらに神が機会を与えてくださるままに、これをすべての信仰の家族や、主イエスの御名を呼ぶあらゆる所のすべての人にまで及ぼさなければならない。ただし聖徒としてのこの互いの交わりは、各自が自分の財産や所有に対して持っている権利や所有権を奪ったり、侵害したりするものではない(使徒5:4;エペソ4:28)。
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第二十八章 バプテスマと主の晩餐について

1.バプテスマと主の晩餐は、唯一の立法者である主イエスによって明確にまた主権的に制定され、世の終りまで彼の教会において継続されなければならない、礼典である(マタイ 28:19,20;Ⅰコリ 11:26)。

2.これらの聖なる礼典はキリストの任命に従って、そのために召され、適格とされた者によってのみ執行されなければならない(マタイ 28:19;Ⅰコリ 4:1)。
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第二十九章 バプテスマについて

1.バプテスマはイエス・キリストによって制定された新約の礼典である。バプテスマは、これを受けた者に対してキリストの死と復活においてキリストと合せられ(ロマ6:3-5;コロサイ2:12;ガラテヤ 3:27)、キリストに接がれ、罪の赦しを受け(マルコ1:4;使徒 26:16)、イエス・キリストによって己を神にささげ(ロマ6:2,4)、新しい生命に生きまた歩むことを表わす、キリストとの交わりのしるしである。

2.神に対して悔い改め、主イエスに対して信仰と服従を真実に告白した人だけが、この礼典に適正にあずかることが出来る(マルコ 16:16; 使徒 8:36,37)。

3.この礼典に用いられる外的な要素は水であり(マタイ 28:19,20; 使徒 8:38)、信仰者は父と子と聖霊の御名においてバプテスマを受ける。

4.浸礼、すなわち水中に沈めることが、この礼典の正しい執行のために不可欠である(マタイ 3:16; ヨハネ 3:23)。
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第三十章 主の晩餐について

1.主イエスの晩餐は、主が渡される夜、彼によって制定され、彼の教会において世の終りまで守られるべきものである。これは彼の死によるご自身の犠牲を示して、絶えず記念とし(Ⅰコリ11:23-26)、その犠牲によるすべての祝福によって信者の信仰を確立するため、主にある彼らの霊的養育や成長のため、キリストに対して負っているすべての義務への一層の遵守と遂行のため、また彼らのキリストとの交わりや相互の交わりのきずなと保証のためである(Ⅰコリ10:16,17,21)。

2.この礼典において、キリストは生きている者や死んだ者の罪の赦しのためにみ父にささげられるのでもなく、またいかなる現実の犠牲がささげられるのでもない。それは十字架の上でキリストが、ご自身でご自身をただ一度だけ、ささげられたことの記念であり(ヘブル9:25,26,28)、このみ業に対して神に献げ得るあらゆる讃美の霊的ささげものである(Ⅰコリ11:24;マタイ26:26,27)。従って教皇主義者のミサ(と彼らが呼ぶ)犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供えものであるキリストご自身のただひとつの犠牲にとっては最も有害である。

3.この礼典において主イエスは教役者に、祈り、パンとぶどう酒を祝福しそれによってこれらの品を普通の用途から聖なる用途へと聖別すること、パンを取って裂き、杯を取って、(彼ら自身もあずかりながら)陪餐者にこの二つを与えることを命じられた(Ⅰコリ11:23-26)。

4.会衆に杯を与えるのを拒むこと、パンとぶどう酒を礼拝すること、崇拝のためにこれらを高く上げたり、持ち回ったりすること、礼拝まがいの宗教的用途のためにそれらを保存することは、みなこの礼典の性質とキリストの制定に反する(マタイ26:26-28;15:9; 出エジプト20:4,5)。

5.キリストによって定められた用途にふさわしく聖別されたこの礼典の外的な要素は、十字架につけられたキリストと深い関係を持っているので、しばしば真実に、しかし象徴的にそれらが表わそうとしている名称、すなわちキリストの体と血と呼ばれる(Ⅰコリント 11:27)。しかし、その実質と性質は前と同じように真実に、ただパンとぶどう酒のままである(Ⅰコリント11:26; 5:28)。

6.パンやぶどう酒の実質が司祭による聖別や他のどのような方法によってでもキリストの体と血の実質に変わると主張する(通常、実体変化説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく(使徒3:21; ルカ24:6; 5:39)、常識や理性にも反し、この礼典の性質をくつがえし(Ⅰコリント11:24,25)、これまでもまた今でも種々の迷信、それどころかひどい偶像礼拝の原因になっている。

7.この礼典を受けるにふさわしい陪餐者は、外的にはこの礼典の目に見える要素にあずかりながら、内的には信仰により現実にまた実際に、しかも肉的、有形的にでなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死によるすべての祝福を受けて養われる(Ⅰコリント10:16; 11:23-26)。この礼典において、この要素が信者の外的感覚に対して存在するように、キリストの体と血とは有形的、肉的にでなく、霊的に信者の信仰に対して存在する。

8.無知で不信仰なすべての人は、キリストとの交わりを楽しむのは不適当であるので(Ⅱコリント 6:14,15)、主の食卓にあずかるにはふさわしくない。従って、彼らがその状態を続けている限り、この聖なる奥義にあずかり、またはあずかることを許されるならば、キリストに対して大罪を犯すことを免れない(Ⅰコリント 11:29; マタイ 7:6)。誰でもふさわしくないままでこの礼典にあずかる者は、主の体と血に対して罪を犯し、その食い飲みは彼ら自身に審きをもたらす。
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第三十一章 人間の死後の状態及び死人の復活について

1.人間の肉体は死後、ちりに帰り、朽ち果てる(創世記3:19; 使徒13:36)。しかし、その霊魂は(死ぬことも眠ることもせずに)、不死の本質をもっているので直ちにそれを与えた神に帰る(伝道者12:7)。義人の霊魂はその時に聖さにおいて完全なものとされてパラダイスに受け入れられ、そこでキリストと共におり、自分の体の完全な贖いを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る(ルカ23:43;Ⅱコリント5:1,6,8;ピリピ1:23; ヘブル12:23)。悪人の霊魂は地獄に投げ入れられそこで苦悩と全く暗黒のうちに留められ大いなる日の審判まで閉じこめられる(ユダ 6,7; Ⅰペテロ 3:19; ルカ 16:23,24)。聖書は、肉体を離れた霊魂に対してこの二つの場所以外は何も認めていない。

2.終りの日に生きている聖徒たちは、眠りにつかずに変えられる(Ⅰコリント15:51,52;Ⅰテサロニケ4:17)。そしてすべての死人は、異なった性質ではあるが別のものではない同じ体をもってよみがえらせられ(ヨブ19:26,27)、その霊魂に永久に再結合される(Ⅰコリント15:42,43)。

3.不義なる者の体はキリストの力によって恥辱へとよみがえらせられ、義人の体はキリストの御霊によって栄誉へとよみがえらせられ、キリストの栄光の体に似るものとされる(使徒24:15; ヨヘネ5:28,29; ピリピ3:21)。
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第三十二章 最後の審判について

1.神はイエス・キリストにより義をもって世界を審く日を定められた(使徒17:31;ヨハネ5:22、27)。キリストには父よりあらゆる権能とさばきが与えられていて、その日には背教のみ使いたちが審かれるだけでなく(Ⅰコリント6:3; ユダ6)、地上に生存していたあらゆる人々も(Ⅱコリント5:10; 伝道12:14; マタイ12:36; ロマ14:10,12;マタイ 25:32等)、彼らの思いと言葉と行為の申し開きをして、善悪いずれも彼らが肉体で行ったことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷の前にあらわれる。

2.神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいてその憐れみの栄光を表わし(ロマ 9:22,23)、邪悪で不従順な捨てられた者への永遠の刑罰においてご自分の正義の栄光を表わすためである。そのため、その時義人は永遠の生命に入り、主の御前において、永遠の報いと共に満ち溢れる喜びと栄光を受けるが(マタイ25:21,34;Ⅱテモテ4:8)、神を知らず、またイエス・キリストの福音に従わなかった悪人は永遠の苦悩に投げ込まれ、主の御前とその権能の栄光から、永遠の破滅をもって罰せられる(マタイ 25:46; マルコ 9:48;Ⅱテサロニケ1:7-10)。

3.キリストはすべての人に罪を思いとどまらせるために(Ⅱコリント 5:10,11)、また逆境にある信者の大いなる慰めのために(Ⅱテサロニケ 1:3,6,7)、審判のあることを我々に確実に信じさせようとされるが、それと共に人があらゆる肉的な安心感を払い除けて、常に目を覚ましているようにと、その日を人に知らせない。彼らはどのような時に主が来られるかを知らないので(マルコ 13:35-37; ルカ13:35,36)、いつも備えをして「来たりたまえ、主イエスよ。すみやかに来たりたまえ」と言うためである。アーメン(黙示録22:20)。
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